役者は楽器だ
本当は台本の具体的な書き方について考えてみようと思っていたのだが、少し思うところがあったので先にこれを書くことにした。
役者が伸びていくとはどういうことなのか。
ずっとそれを考えている。
私たちは観客として芝居を見た時、なにを基準に「いい役者、悪い役者」を分けているのだろう。
一つははっきりしている。
私は自意識を垂れ流している役者が嫌いだ。「私を見て」「俺を見てくれ」という人は勘弁願いたいと思う。まずは作品の中で演者としてちゃんと反応できることが基準だ。
バンドと比較するとよくわかる。
音楽を始めようと思ったら、まずは楽器などを練習したりする。
で、譜面があって、それを演奏できなければ話にならない。ギター、ベース、ドラムなどのパートがあって、それぞれがあるリズムでメロディを奏でる。
それができないうちは音楽にならない。
で、それができるようになってから、それぞれの個性などが出てくるのだ。
ギターも弾けないギタリストが「俺のギターはパッションなんすよ」と言ったって笑われるだけだ。
で、私は演劇だって似たようなものだと思っている。
台本という譜面があって、演出がタクトを振る。
それに合わせて流れをつくれないような役者とは一緒にやりたくない。
なので、呼吸の状態や受け渡しについてはほとんど個性などが入り込む余地はないと考えている。そして、呼吸を忠実に演奏していたら、くだらない自意識なんて垂れ流す余裕はないはずなのだ。
昔、意味なく大声で喋る役者がいたので、やめてくれと伝えたら「俺の絶叫には迫力あるんです」という、どうでもいい答えが返ってきたことがあり、その時は「だったらどうぞ、他の場所で絶叫していてください」と言わせてもらった。
歪では去年に引き続き、それは徹底してやっている。
少しでも呼吸が違ったら、それはすぐに訂正する。台本のつながりを確認して、どの呼吸になるのかをすり合わせる。
それでやってみてもダメな時は楽器の問題だ。
この場合、楽器とは役者自身であり、そのここに染み付いた音の出し方や癖が邪魔しているのだ。
阿久澤菜々は句読点に差し掛かると、意味内容と関係なく切ってしまう。
石丸奈菜美は勝手に自分のリズムに落とし込んでしまう。
高橋明日香は台詞を歌ってしまう。
これらの癖の理由を探り、自覚してもらい、そしてそれを排除していく。
例えば身体を壁につけてもらい、身動きもしない状態でフラットに会話させてみる。
相手から返ってきた呼吸を受けては返すという練習をする。
随分と皆、よくなってきた。
しかし、立ち稽古に入ると再び、個々の癖が顔を出すんだけどね。
こうした稽古をしていると「個性を殺すんですか」と言ってくる人がいたりするが、個性と癖は違う。それに、個性なんて出るもんであって、出すもんじゃない。
譜面通りに演奏できないことを個性だというのなら、そんな個性には全く興味がない。
と、いうわけでそんな地道な稽古を繰り返している。